嫌な記憶は忘れられるのか?
- 作成日: 2022-06-27
- 更新日: 2023-12-25
- カテゴリ: 生活
嫌な記憶は忘れられるのか?
嫌な記憶。果たしてこれは忘れられるのだろうか。
基本的にはこれは忘れることは非常に難しい。
記憶というものは思い出そうとすれば思い出せるものが多い。
そして嫌な記憶というものは記憶に残りやすい。
そのため何かのはずみで思い出すことはある。
- 嫌な記憶は強く残りやすい
嫌な記憶は基本的には忘れることはできない。
だが嫌な記憶と向き合うことはできる。
この記事では嫌な記憶との向き合い方を考えてみたいと思う。
嫌な記憶はなぜ生まれるか?
嫌な記憶というのはなぜ生まれてしまうのだろうか。
これは嫌な体験から生ずる。
嫌な体験、経験をするとそれが嫌な記憶になってしまう。
嫌な体験は身体と精神に刻まれて残り続ける。
- 嫌な体験は身体と精神に刻まれてしまう
人間は嫌な記憶を積極的に記憶するようにできている。
むしろ記憶に残りやすいのは良い記憶より嫌な記憶だ。
これは人間という生き物がそういう風にできているから仕方のないことだ。
嫌な体験をしないで生きることは可能か?
それならば嫌な体験をしないように生きればいいのだ。
そうすれば嫌な記憶も作らないで済む。
だが果たしてそんなことは可能なのだろうか?
結論を言うとそのような生き方はほぼ不可能だ。
- 嫌な体験をせずに生きるのは不可能
人間は生きていくうえで他人とどうしても関わってしまう。
一切かかわらずに生きるということは難しい。
他人と関わるというのは嫌な記憶を作るかもしれないということだ。
だから生きていくうえでそういう体験をしないで行くのはほぼ不可能である。
嫌な記憶と良い記憶は記憶に残りやすい
人間にとって記憶するべき価値があるものは2つある。
それは↓だ。
- 良い記憶
- 嫌な記憶
良い記憶は人生を豊かにする。
そのため記憶するのは幸福のために必要なことのように思える。
良い記憶Welcomeである。
だが嫌な記憶はどうだろうか?
なぜこんなものが記憶する価値があるのか?
さっさと忘れたいのになぜ忘れられないのか?
特に嫌な記憶は鮮明に覚えてしまうもの
特に嫌な記憶というのは鮮明に頭の中に残ってしまう。
あるいは身体に直接記憶されてしまうものだ。
たとえば暇な時間ができたとする。
特にやることもない。
そうすると昔のことを考えたりする。
- 暇な時間に昔のことを考える
昔のことを考えると必ず顔を出すのが嫌な記憶である。
嫌な記憶というのは脳のメモリー上にわがもの顔で存在する。
お前なんかに用はない、と言ったところで無駄である。
鮮明に記憶に残ってしまう。それが嫌な記憶だ。
なぜ嫌な記憶を鮮明に記録してしまうのか
なぜ人は嫌な記憶を鮮明に記録してしまうのだろうか?
これは嫌な記憶に価値があるからである。
なぜ価値があるのかというと、嫌な記憶を思い出すことで再びその体験をすることを防いでいるのだ。
嫌な体験はダメージである。
だから自分、生命体としての自分にとってはマイナスである。
自分の生存権にも関わってくる。
- 嫌な記憶は同じ失敗を防いでいる
だから嫌な記憶を思い出して再びそういった経験をしないように脳がコントロールしているのである。
この嫌な記憶を思い出すメカニズムのおかげで私たちは過去の失敗を繰り返さずに済むのだ。
つまり嫌な記憶を記録し、再び思い出すことは私たち生命にとって必要な仕組みなのである。
私たちの身体はそういう風にできているのだ。
嫌な記憶を忘れることは可能か?
それで嫌な記憶を忘れることは可能だろうか?
嫌な記憶を思い出すと胸が痛くなりドキドキして気分が悪くなる。
どう考えても自分にとってマイナスである。
こんなものは忘れてしまいたい。
- 嫌な記憶など忘れてしまいたい
だが、それはとても難しいことだろう。
あなたが生命体として優秀であればあるほどそれは難しい。
なぜなら同じ失敗をしないようにする私たちの脳のメカニズムが強く働いているからだ。
脳が優秀な人ほどこのメカニズムはよく働く。
だから忘れることは難しい。
- 脳の仕組み上忘れることはむずかしい
嫌な記憶を思い出したら悲しもう
そうすると嫌な記憶は忘れられないわけだ。
では嫌な記憶を思い出してしまったらどうすればいいのか?
- 嫌な記憶を思い出したらどうしたら?
怒りに任せて周りに当たり散らす?
それは下策だ。
もっと効率の良い対処方法がある。
それが「悲しむ」ことだ。
怒るのではなく悲しむのが大事
嫌な記憶を思い出したときに注意したいのがこれだ。
怒るのではなく悲しむ、ということが大事。
- 怒りではなく悲しみを
実は悲しむという感情には治癒効果があると言われている。
そのため何か自分にダメージのあることが起こったら悲しむのが正しい反応と言える。
これが怒りになってしまうとその怒りによって周りや自分にもダメージが生まれてしまう。
悲しんで自分を治癒することで嫌な記憶と向き合うことができる。
治癒が完全にすんだらもう嫌な記憶にも苦しまなくて済むと思う。
怒りは燃費の悪い感情発散
嫌な記憶を思い出して怒りに駆られてしまうことは非常に燃費が悪い。
嫌な記憶の発散方法には2つある。
それが↓だ。
- 怒って発散する
- 悲しんで発散する
怒りは2次的なダメージが出てしまう。
大声を出したら周りから睨まれるし、物を壊したらお金も失う。
そうすると燃費の良い反応は悲しむことだ。
悲しむのは大して周りには影響が出ない。
自分1人で部屋で悲しむというのは怒りに勝る方法と言える。
悲しむことで嫌な記憶が浄化される
悲しむことには治癒効果がある。
悲しい思いをするのは自分を癒すことになるのだ。
悲しむことで昔の嫌な記憶と向き合い発散する。
発散することで嫌な記憶が浄化される。
- 嫌な記憶を悲しんで発散する
ダメージの多い嫌な記憶は浄化にも時間がかかる。
だが悲しみ続けることで浄化は進んでいくと考える。
声を上げて泣いてしまおう
こんな経験は無いだろうか?
嫌なことを経験したが泣いてしまったら気持ちもスッキリした。
という経験だ。
筆者は子供のころによく経験した。
自分の思い通りに行かないことがあってそれで悲しくなって大声で泣く。
泣くと不思議なことに気分がすっきりしてどうでもよくなるのだ。
- 泣くとスッキリしてどうでもよくなる
これは泣くという行動に大きな感情面での浄化作用があるからだと思われる。
つまり嫌な記憶を思い出したら大声をあげて泣いてしまうのが良い。
ということになる。
じっさい泣くとスッキリするのだ。
しかし大人になるとこの泣くという感情の発散がうまくできなくなる。
子供はその点感情面の発散の機構がしっかり働いていて治癒力が高い。
嫌な記憶を思い出したら泣いてしまうのも手だ。
泣き疲れれば気持ちもすっきりする
泣いて泣き疲れてしまいには寝てしまう。
それが最高である。
そうなったら起きたときはかなりスッキリしている。
- 泣き疲れて寝るのが理想
私たちは子供のころはそれが自然にできていた。
しかし大人になり感情面のコントロールが鈍ってしまいあまり泣かなくなった。
そうして感情の発散をうまくすることができなくなり鬱になったりしてしまう。
子供のころは嫌な記憶や体験を発散するためによく泣いていたはずである。
そのことを思い出してほしい。
世の中には嫌な人間が多い
それから嫌な記憶というのはどこから発生するか?
それは嫌な人間からである。
そして世の中には嫌な人間は非常に多いのである。
つまり社会で生きていくことはそういった人間と向き合って嫌な思いをして生きていくことになる。
- 嫌な人間と向き合う必要がある
嫌な人間は社会から無くすことはできない。
共存しなければいけない。
もしかしたら他の人から見たら自分も嫌な人間かもしれない。
要は嫌な人間は世の中に多いのである。
しかしそのことに執着するのは良くない
だが嫌な人間に執着するのは良くないことだ。
嫌な人間に執着してもいいことはない。
なぜなら嫌な人間は嫌な体験の発生源だからだ。
つまりその人間に執着すれば嫌な体験を重ねることになる。
- 嫌な人間は嫌な体験の発生源
だから嫌な人間には執着せずに距離を置くのが大事だ。
距離が置けないなら何か自己防衛をしなければならない。
嫌な人間を更生することは不可能である。
それはその人の生まれつきの気質だ。
だからその気質を変えようと思って執着するのはおすすめできない。
人間について諦めよう
人間は不完全な生き物だ。
他人を傷つけ傷ついてしまう生き物なのだ。
だからあまり理想を高くして人間を高尚化するのはよくない。
しょせん人間なのだ。
人間は別に大した生き物ではないのである。
- 人間は大した生き物ではない
だから人間について諦めてしまおう。
諦めれば気持ちも楽になる。
諦めればダメージを減らすことが出来る
「諦める」というのは治癒効果のある思想である。
諦めることで嫌な記憶のダメージも減らすことができる。
なぜあの人はあんなことを? とか。
なぜあの時こんなことが? とか考えてしまう。
だがそのことに悩み運命をコントロールしようと考えるのはおすすめできない。
起きてしまったことはさっさと諦める。
これが継続的なダメージを減らすのに有効な手段だ。
おわりに
今回は嫌な記憶は忘れることができるのかを考えてみた。
結論を言うとそれはむずかしい。
だが嫌な記憶と向き合うことは可能だ。
悲しんで諦めてしまおう。
それが一番楽なはずである。
🦝 < 悲しもう
🐭 < あきらめよう