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人間についての考察:行動への感情的動機

  • 作成日: 2023-05-19
  • 更新日: 2023-12-24
  • カテゴリ: 人間

人間についての考察

数十年生きてきて感じることは人間、特に私は日本人であるからここで言う人間とは日本人を指しているのだが、この日本人というのは興味深い生き物であるということである。
もちろん私も人間であり日本人であるので、そういった興味の対象には自分自身も含まれている。
だが他人を観察することは同時に自分の観察にも繋がるわけで、他人について観察し考えることが多いのである。

今までの人生で他人と接してきて思うことは、人間には基本となる行動原理があるのか、という点である。
行動原理、アルゴリズムがあり人間はそれに無意識的に従って生きていて、そのことを意識することはあまりないのではないか。
そのことを考える人もいてそういった人たちは学問として研究していたりする。

私のこの記事はあくまで私の経験則と観察によって考えたもので何か論理的な実験の結果などがあるわけではない。
だが最近は自分の仮説が少しずつ形になってきており、それを文章にしておくのはいい考えなのではないかと思ったのである。

人間は行動を伴う生き物である。そしてその行動は何を根拠として行われるのか。
例えば怒りである。怒りはなぜ発生するのか。そして人は怒りによってなぜ行動してしまうのか。
例えば嘲笑である。なぜ人は他人を嘲笑するのか。そのことで何が満たされるのか。
例えば尊敬もそうだ。他人を尊敬するというのは何を源にしているのか。人は尊敬してる相手をなぜ敬うのか。

これらの感情や行動、これの根本的なものは何かと考えると、私はその1つとして「恐怖」が挙げられると思う。
恐怖は人を行動させる。怒りを呼び起こし攻撃性を増し、また回避的な行動も起こさせる。
恐怖はかなり根源的な感情の様に思われる。よってここから派生する副次的感情も多い。

そう言われればそうだ。人は人の形になったころから群れで行動し、ほかの捕食者にいつ襲われるかもわからない生活を続けてきた。と言われているらしい。
これが仮に真であるなら人間にとって恐怖とかはなり身近な感情であり、恐怖によって行動が分岐するのはごくごく自然なことであるように思われる。
血を見ると心拍数が上がるのもこれは死への恐怖からではないだろうか。血が自分の死を連想させ、そのことを恐れて身体を臨戦態勢にする。結果、心拍数が上がる。

他の国民はどうか知らないが、少なくとも日本人はこの恐怖心が強い生き物のようである。
恐怖を原動力として行動を変化させることが多い。もっともこれは日本人に限らず他の国民もそうだろうと思われる。

たとえば街中で見ず知らずの人間を見かけた時、人はどういう反応をするか。
ほとんどの場合人は無関心であるがその人間の容姿によって見る人の感情が分岐するのである。
たとえばみすぼらしい見た目であるなら人はその人間に不信感や嫌悪感をいだく。
なぜそのような感情を抱くと言えばその根底に恐怖心があるように思われる。
自分の認識の外にある得体の知れないモノや人間に対しては人は恐怖を抱くようにできているのかもしれない。

たとえば平日の昼間の住宅街で歩いている中年男性を見かけた主婦がいる。
主婦はこう考える。「普通の男なら平日の昼間は会社にいるはずだから、この男はどうも不審だ」
自分の固定観念から外れている対象を見て、不信感を感じ若干の恐怖心を覚える。
その恐怖心は大きくなると警察への通報という形で現れることがある。
平日の昼間に中年男性が歩いているだけで通報だなんて、そんなことあるか。と思う人もいるかもしれない。
だがネットで検索すればわかるがそういったことは頻発している。

この主婦の行動の根底にあるのはその中年男性への恐怖心ではないだろうか。
得体の知れない人間が自分の家の近所を歩いている。不審人物に自分の居住域が侵されている。その人間に何かされるかもしれない。
そういった恐怖心が通報という行動を起こさせるのではないだろうか。

だが実際はその中年男性は自営業で、仕事の合間に息抜きに散歩しているだけかもしれない。
そういった考えをする人も中にはいるが、これがどうもそういった想像力を働かせる人はそれほどいないようなのである。

多くの人間は自分の中の固定概念と直感に従うのである。そしてそれによって恐怖などが起こり、その人を行動させる。
固定概念ではなく想像力を働かせる人は色々なケースを想定する。先の自営業の例がそうである。だが多くの人はそういった想像力を働かせない。
固定概念により、つまり多数派の知識により直感を得て感情を起こす。
先の主婦の例でいえば「普通の中年男性は昼間は会社にいる」というのが固定概念である。そして「この男は不審だ」と思うのが直感である。その後、不信感から恐怖心が起こり、通報という行動を起こす。

だが個人が持つ固定概念というのは間違っていることも多い。実際に調べてみると自分の知識と違っていたなんてことはよくあることだ。
昼間の住宅街を散歩する男性なんていうのは、最近のテレワークが一般的になった社会ではごくありふれた光景なのかもしれない。在宅ワークで働いている男が息抜きに散歩をするなどはごくごくありふれたことである。だがそういった社会の変化が起こり始めたころは、また既成の固定概念が強く、普通の中年男性は昼間は会社にいるという認識が働く。

つまり人々が持っている固定概念というのは文化的にあるいは社会的に形成された一般論であり、人々はこの一般論を信じて判断するのである。
そしてその判断の結果、恐怖心などが生まれ人を行動させる。

嘲笑はどうだろうか。他人を見下し馬鹿にする行動。これは何を原動力にして行われているのか。
おそらくこれは人間が群れで行動することによって得た「群れ内の序列」によるものである。
他人が自分より下の存在だと認識すると人間はその他人に対して嘲笑的な行動を取るようになる。
馬鹿にして、あるいは攻撃して、暴力を振るったりすることもある。この他人への嘲笑的行動は面白いことに知能レベルはあまり関係ないようである。
いわゆる高学歴と言われ知識を持っている人種、たとえば大学の教授などであっても他人を嘲笑的に見て接することがある。

なぜ序列が高い個体は序列が低い個体に対して攻撃的になるのか。
これに関係するのが「快楽、快感」であるように思える。つまり誰かを攻撃するというのは人間の快楽系を刺激することがあるのである。
なぜ攻撃によって快感が起こるのか、これはわからないが人間の進化の過程で獲得した機序と思われる。狩りをしていたころは獲物を攻撃することは生きることであり、それによって攻撃から快感が生じるようになったのかもしれない。

私の観察の範囲ではこの「恐怖」と「快感」が原始的なように思われる。他人を観察しているとこの2つのどちらかの感情が見えてくることが多い。

だが「尊敬」はどうだろうか。他人へのリスペクト。これは何を根拠にして起こるのか。
群れの序列の中で上位の個体に従うのは恐怖心からか、あるいは尊敬心からか、そのどちらかであることが多い。
この尊敬という感情は恐怖や快感と比べるとなかなかわかりづらいものだ。かなり複雑な感情の様に思える。

尊敬と言うのは好意であり、好意というのは好感度である。好感度が高くなると「好き」とか「尊敬」といった感情に変化する。
この好感度と言うのは何のためにあるのか。これはおそらく味方と敵を区別するための人間が持っている指標である。
生存のためには味方が必要で、敵は排除しなければならない。好感度が高い人間は味方と判断し、好感度が低い人間は敵だと判断する。

恐怖心は相手への好感度を低下させる。主婦の不審者に対する好感度は低い。それは不審者を自分の存在をおびやかすかもしれない敵だと認識しているからである。

まとめると人間の行動を変化させるものは「恐怖」と「快感」、そして「好感度」である。
恐怖によって怒り、逃避、服従などが生じ、快感によって攻撃、嘲笑などが生まれ、好感度の高低によって人は相手を敵か味方か判断する。
恐怖と快感を制御するのはなかなか難しい話である。よって人間の行動はこの視点で見るとわかりやすくなるかもしれない。