自己防衛の方法を考える

429, 2022-03-15

目次

自己防衛の方法を考える

学校なども含めた社会では、誰かが誰かに攻撃されるということがよく起こる。
このような第3者からの攻撃から自分の身を守るにはどうしたらいいのか?

子供から大人になって、こういったトラブルは無くなることは無かった。
まるでそういった攻撃行為が人間の付属品のように感じるぐらいである。
これは真であるのか?
人間は元来攻撃的な生き物なのか?

これを筆者の経験から考えたいと思う。

用語の定義

「自己防衛」とは、自分の身を守ることを言う。
自分の身体と精神、あるいは家族や財産を守るための行い、全般を指す。
何から守るのか? というと、それは第3者からの「攻撃」である。

「攻撃」とは、人間が別の人間に行う精神的あるいは肉体的な暴力行為である。
または対象の人間の家族や財産を脅かす攻撃も含める。

自己を守るとは?

なぜ攻撃に対して自己防衛が必要なのか?
これを考えたい。

自分の精神や肉体が他者に侵略をうけるというのは、その者の「尊厳」を傷付ける行いである。
尊厳とは「尊く、おごそかで、犯してはならないこと。気高く威厳があること。」ことを指す。

つまり人間には他人が犯してはならない精神的あるいは肉体的領域があるということだ。
この領域を侵犯するのが第3者による攻撃だ。

自分の土地に他人が勝手に入ったら、これも侵犯行為である。
自分の土地は所有者(自分)のものであって、これを他人がいいようにしていい権利は持っていない。

法律が適用されるのであればこれは「住居侵入罪」にあたる。
日本の法律では住居侵入罪は「3年以下の懲役または10万円以下の罰金」になる。
(2022年現在)

法律ではそう決まっているが、なぜ他人の精神的、肉体的、財産的領域を犯してはならないのか?

これは根本的なところを辿ると人間の「生命活動」に行きつくと思う。
我々は生命として「生きる」ことが根源的な活動になっている。
他人に精神的、肉体的な領域を犯されるのは、この「生きる」という活動が他人によって阻害される恐れがある。
そのため、1生命体としては「生きる」という目的があるため、この「生きる」という活動を阻害する者から自分の生命活動を守る必要がある。

つまり自己防衛とは自分の生命を守る活動であるということになる。

なぜ他人は他人を攻撃するか?

なぜ他人は他人を攻撃するのだろうか?

仮説としては、われわれ生命は競争の中で生きているということだ。
競争では他の生命体より自分が生き残ることを優先する。

これは原始的な欲求なのだろうか?
つまり、我々生命体が持っている原始的な、DNAに組み込まれている欲求?

「生きる」ことが原始的な欲求であるなら、ライバルの排除は付加的なものであろうか。
なぜ特定の個体はライバルを除外し攻撃するのだろうか。
自分の種を残して反映させるための、動物的な欲求だろうか?

そもそも「生きる」ことが原始的な欲求であるとするなら、なぜ自殺が生まれるのかという疑問も残る。
自殺は原始的な欲求を超越したものなのか?

これについては本題から外れるためとりあえず置いておくことにする。
ここでは「生きる」ことが生命の原始的な欲求であると仮定する。

競争による攻撃説

生命の目的はなんだろうか。
「増殖」であろうか?

それなら分裂あるいは生殖能力を失った生命は死んでも良いことになる。
じっさいはそういうことにはならない。
生殖能力を失ったとしても「生きたい」という意志は残る。

つまり生命の目的は増殖以前にある。
これはおそらく「生きること」つまり「生命活動を維持することだろう」

人間は猿から進化したと言われている。
猿は群れを作る動物だ。

群れの中では階級があり、上位のオスはより多くのメスと交尾することができる。
これはニホンザルなどに見られる。

つまりオスにとって他者より上位の階級に行くのは、より多くのメスとセックスするためである。
これは確かに、強い子孫を残すという目的からすると理に叶ったアルゴリズムだ。
弱いオスは階級が下がり、強いオスの階級が上がり、そのオスの子供が増える。

この競争アルゴリズムでは、オスが他のオスを押しのけて争うことが前提になっている。
力の優劣で階級が決まる。

人間にもこの猿の頃の本能が残っていて、他者を攻撃することでより上位の階級に行こうとしているのではないか、より多くの子供を残すために。

しかしこれも疑問は残る。
オスが競争によって多くのメスとセックスできるのであれば、なぜ人間の男性は女性に攻撃することがあるのだろうか。
じっさいの人間社会ではオスがメスを攻撃することも非常に多い。
逆もあるが。

猿的に言って、メスはオスからすると競争によって得られる価値であると言える。
その価値に対して攻撃を加えるというのは、論理的ではない。

オスが特定のメスを交尾対象と見なさない場合はどうか?
その場合は攻撃が発生することがある。
よく人間の男性が不適切な言葉などで女性を攻撃することがある。

しかし、オスからするとメスは競争相手ではない。
交尾のパートナーだ。
やはりそのパートナー(たとえ交尾対象でなくても)攻撃するというのは、人間の攻撃が競争原理以前から存在していることになる。

人間の「攻撃」はもっと原始的なものではないか。

複合的な仮説

人間のDNAに攻撃というアクションが組み込まれている、という考えはどうか。
つまり猿の競争とか以前に、生命の設計段階でそういったアクションが組み込まれているということだ。

これは生物学・心理学では「内的衝動説」と呼ばれている。
つまりこういった攻撃が本能としてあり、それが現れるのが攻撃という行動だということだ。

「情動発散説」という説もあり、これはストレスを発散するために攻撃を行うという説だ。

他には「社会的機能説」もある。これは社会的葛藤を解決するために攻撃を行うというものだ。

じっさいの攻撃というのは、おそらく複合的な理由によるのだろう。

攻撃行動 - Wikipedia

自己防衛方法

内的衝動説が合ってるとする。
そうすると、人間の攻撃性は人間に本能として備わっていることになる。

つまりこの考えからすると、人間の攻撃行動を0にすることはできないことになる。
攻撃が本能的なものであるなら、自己防衛も本能的なものに訴える必要があるのではないか。

理性ではなく本能で他人は自分に攻撃している。
そこに正しい動機や論理などは存在しないかもしれない。

こういった攻撃を防ぐ手段としてよく知られているのは「抑止力」である。

相手が自分に害を与える可能性があると、人はその相手への攻撃を躊躇するようになる。
つまり、相手に攻撃をさせないようにするには「自分に手を出したら痛い目を見るぞ」と相手に教えてあげればいいのだ。

たとえば「空手、柔道をやっててどっちも黒帯です」という人がいたとする。
この人に物理的な攻撃をする人はまれである。
これは空手や柔道をやっているという事実が、抑止力になっているためだ。

他にも「反撃」をするというのもある。
(ただし反撃は副作用がある)
たとえば悪口を言われたら、相手に悪口を言い返す。
そうすると相手は「この人に悪口を言うと自分にも返ってくる」と学習する。

悪口を言うと自分に害が及ぶ可能性があるため、その人は悪口を言うのを躊躇するようになるかもしれない。
これも抑止力の一種であると言える。
しかし反撃には副作用が生まれる場合もある。
反撃することによって抑止にはなるが、相手の攻撃がエスカレートする場合もある。

相手が攻撃的欲求を抑えられない人間だと、これは起こりやすい。

反撃するとどうなる?

反撃を使った抑止には問題点もある。
たとえば殴られた場合だ。

この場合、日本の法律は殴り返すことを認めていない。
つまり殴られて殴り返すと、暴行罪・傷害罪に問われる場合がある。

だから殴られた場合は反撃してはいけないことになる。
この場合は、警察に頼むのが正しい。

おわりに

今回は自己防衛の方法を考えた。
人間はさまざまな要因により、他者に攻撃を加える可能性がある生き物である。
しかし、抑止力を使うことでその攻撃を減らすことは出来ると予想する。

代表的なのは核ミサイルだ。
核ミサイルの抑止力は強力で、第3次世界大戦も回避された。
人は核ミサイルを持てないが、代わりに言葉を使うことができる。

相手を脅迫したりしてしまうと脅迫罪に問われてしまうが、自分の持っている力をPRしたりはできる。
たとえば友達に警察官がいるなら「私の友達には警察官がいる」とか、抑止力としては使えるだろう。
筋トレするのもいいかもしれない。

(^ _ ^)

人間は攻撃的な生き物なのかなぁ?

(・ v ・)

そういう個体がいる、という程度なのでは?



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